邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517445904/-100
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。

世有王

?@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有?搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味

?A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。

?B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味

?C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)

?D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。

?C は三世(三代)の意味、?Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
?@ は代々の意だが、魏代ではある。?Bも代々の意だが、魏代ではある。?Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切

以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが妥当である。

2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。

全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。

伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。

水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りであり、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。

【里程】
漢代に楽浪郡を支配していた公孫氏が独自に制定したの里(短里)で実測
日本側の地名は漢代の地名(倭国の中に、末蘆国、伊都国、奴国・・・
魏が公孫氏の楽浪郡を滅ぼして押収した資料に短里使用が使用されており
これが魏略や三国志魏書の参考資料となる。

【日程】
魏代に魏使が出張日誌に記録
日本側の地名は魏代の地名(邪馬壹国、狗奴国、投馬国、などは魏代に新登場
この出張日誌が三国志魏書の参考資料に加わる。

※公孫淵は自立を目指し燕王を自称し独自の年号を制定しており、度量衡も独自のものを制定したと考えられる
短里も公孫淵が制定したものであろう。

【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)


狗邪韓国 朝鮮半島南岸(巨斉島)
対海国 対馬島(厳原)
一大国 壱岐島(原の辻遺跡)
末廬国 唐津平野(中原遺跡)
伊都国 嘉瀬川扇状地(惣座遺跡)→ 奴国 佐賀平野中部西部(佐賀城城内)
不彌国 佐賀平野東部脊振山麓(吉野ヶ里遺跡)
投馬国 筑後平野沿岸部(?)
邪馬台国 筑後川中流平野(北野地域)+筑後平野内陸部(室岡遺跡)
卑弥呼の墓 祇園山古墳(径100歩=φ25.5m)
卑弥呼の居所(城柵) 久留米南部(?)

孫栄健の邪馬台国の全解決を読め

九州説で決まりだから、もう論点もあまりないね。
考古学会とかどうするんだろうね。

矛盾無く読めるんだから伊都国説で決まりですね。

邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part12
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517445904/-100

邪馬台国は伊都と平原遺跡だったらしいぜPart6
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1494579220/-100


邪馬台国の深層を知りたい人はこちらへ〜

【伊都国】

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。

伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。

【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。

卑弥呼は倭国王を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。

【豊国】

考古学は九州北岸のうち、宗像や遠賀川流域には甕棺墓がなく、さらに別の文化的勢力を想定する必要があることを示唆している。
博多湾沿岸の勢力を筑紫、遠賀川流域の勢力を豊国と呼ぶことができる。
この二つの国は、姻戚関係を通じて早くから倭国の権力の中枢として栄えた。
豊玉姫は大綿津見神(海神)の娘であり海を塞き止める力を持っていたが、大綿津見神の竜宮城のモデルが関門海峡にあった豊浦宮であるといわれていて、博多の天孫族から見た隣国である豊国の姿と考えられる。
博多湾岸の天神族が北方の朝鮮半島に向かう対馬海峡に航路を持っていたのに対して、豊国は関門海峡を中心に日本海側に航路を持っていて、
その支配域は邇藝速日命や天香山命など船に乗って日本海を攻略したアマテラスの直系ではない倭人の到達域とほぼ一致する。
ただしその起源は博多湾の志賀島であると言われており、筑紫の天孫族に追われて東に移動した様子が伺われる。
豊国は遠賀川流域文化の担い手であり、もともとは博多湾の志賀島まで勢力範囲だったが、次第に筑紫に取り込まれていく。
ここで制作された遠賀式土器は日本海沿岸を中心に広範囲に分布している。

後に仲哀が筑紫入りしたときは、筑紫日向の伊都高千穂宮(怡土の県主、現在の糸島市)と筑紫岡田宮(崗の県主、現在の北九州市)がそろって出迎え、仲哀は筑紫香椎宮に迎えられた。
仲哀自身も穴門豊浦宮(門司)の王であり、関門海峡を掘削して日本海側と瀬戸内海側の海運を可能とした豊国の外戚である。
現在では北九州市も筑紫すなわち福岡県に組み込まれ、豊前は大分県として東に圧迫されている。

【筑紫】

筑紫とは博多湾沿岸を中心とする、倭国で最も古い勢力である。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、
井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある(年代は暫定的なもの)。
これらの遺跡からは、全国に先駆けてすでに三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
漢により冊封された王権の象徴としてはガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作の成立と同様にこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

筑紫とは、そもそも博多湾を抑える要所である高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。

【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。

【狗奴国】

狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。

九州で出土した副葬品の分布地図

狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。

このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。

邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。

【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)


筑紫の首都が伊都。
高祖山を中心として、漢代伊都(委奴)から魏代伊都(糸島市)へ遷都した。
筑紫の人々は地質が同じ肥国へと入植していった。

一対一対応じゃないけど、
肥国王家と思われるのは伊都王家から分かれた饒速日の系統だろうね。
大山祇の本貫が豊国。
何度かの倭乱のうちに次第に瀬戸内畿内へと押し出されていった。

大山祇が豊国はいいと思うよ。
綿津見神でもあり、志賀島から遠賀川流域に移動したのだろう。

でも饒速日は東に行ったきりなのだから、肥国ははた別系統だよ。

大山祇と綿津見は別物でしょう。
大山祇は豊国土着もしくは筑紫から最初期に豊国〜日本海沿岸へ開拓していった
倭種一族。
綿津見は筑紫以北出身で後追いの倭人でしょうね。

豊国→日本海→瀬戸内→畿内と、
石器青銅器の大山祇がせっせと開拓しては、後から来た筑紫倭人が乗り込んできて、
最初は同盟→筑紫王家の争いに巻き込まれて領土割譲
の繰り返しという、ちょっとかわいそうな経過を辿ったのでしょう。

肥国が開拓されるのは考古学的には福岡県よりはだいぶ遅いですよね。
海沿いに日本海沿岸の方が先に開拓されて、肥国はその後です。
肥後の副葬品が充実してくるのは邪馬台国より後の4世紀からです。
肥国王家というか肥国支配者というのは、
もちろん饒速日その人ではなく、饒速日の子孫のことです。

一方の饒速日は、東西の各地に子孫を残した。

肥国王家=狗奴国王家は、要するに九州物部の出身でしょう。
筑後平野、つまり久留米や朝倉などを拠点に九州を南へ向けて開拓していった。

筑紫宗家の男子が一人二人しかいないのだから、
肥国王家の男子も王位継承権争いに参加してくる。
それが倭国乱でしょう。

卑弥呼は肥国とはまったく別で、
饒速日の子孫という点だけが共通の、肥国王家=狗奴国王家とは関係ない血筋。
だからこそ、邪馬台国側の女王に共立されたわけです。

>狗奴国滅亡によって邪馬台国の存在する必要が無くなり、

>肥前河上の淀姫が壹與なら、肥国王家は滅亡していないですね。
>再統合しただけだと思います。

肥前河上の淀姫は、後世の神功皇后の妹であり、
壹與ではありません。
親族でしょうけども。
肥国王家=狗奴国王家は、倭武尊によって滅ぼされました。

佐賀平野に倭人集落が営まれるのは、邪馬台国以降です。
勝利した綿津見が大規模な干拓事業を行ったのでしょう。

女王壹與が300年前後の肥前河上に居住した痕跡は皆無だと思います。

4,5世紀の神功皇后の時代になって、
広大な田園地帯となった肥前を、神功皇后の妹の領地として分け与えたのでしょう。

>卑弥呼の長期政権中に成人した筑紫宗家の男性が外交や東征で活躍した。

この雌伏の時期が決定的に貴重だったわけです。
魏のエリート達と直接交流して、聡明な若い筑紫宗家エリートが様々な文物を吸収した。

そこから日本列島へ帰還して、
卑弥呼に政務を任せて
邪馬台国軍を動かしての征服。

これまで誰も見向きもしなかった土地を、
次々に灌漑干拓して、平野を生み出していったわけです。
<天孫族

狗奴国王家は滅ぼされたわけです。

勝者である邪馬台国側の、綿津見一族が席巻して、
その血を引く神功皇后とその妹の淀姫が北部九州各地を支配した。

当然のことながら、
支配の根源である豊玉姫は崇められますし、
支配者である神功皇后ならびに妹の淀姫も崇められます。

後世には習合されます。

神功皇后の妹という話そのものが、1503年に初めて出てきた話で、それ以前には記紀を含めてソースは全くないそうです。
神功皇后は卑弥呼より120年は後の人物なので、狗奴国云々はナンセンスです。

文献じゃなくて、考古学的に、佐賀平野に3世紀以前のまともな集落はありますか?
吉野ヶ里などは海岸沿いだったという話ですが。

土地が無ければ国は無い。
国が無ければ王もいないわけです。

平野が狭かろうが、そこに遺跡があるのだから、肥国がなかったということにはなりませんね。
しかも狗奴国が熊本なら、邪馬台国とタイマンを張ることができる大国になります。
卑弥呼がもともと肥国出身なら、天孫族が肥国の狗奴国と手を結ぶことはまずないでしょう。
邪馬台国と狗奴国の対立は肥国内部の内輪揉めな訳です。
卑弥呼が倭国女王にまでなったので、倭国の都である伊都に行った隙を狙って卑弥弓呼が即位を宣言してしまったのでしょう。

佐賀平野がまだ無いわけです。
肥国が無かったとは言えなくとも、
筑紫に対抗できるほどの国家はありませんでした。

狗奴国が熊本でも、熊本に王墓はありませんし、
鉄や銅は筑紫を通して供給されるわけですから、
2,300年遅れで筑紫によって開発中の熊本がタイマンで対抗できるはずもありません。

卑弥呼は肥国出身ではなく、
筑紫出身の饒速日の、
日本海側の子孫の一人が卑弥呼、
筑後以南の子孫の一部が狗奴国王家、
畿内の子孫の頭領が筑紫宗家の東征に屈した、
ということでしょう。

邪馬台国と狗奴国の対立は筑紫王家内部の内輪揉めな訳です。

兄弟喧嘩で山幸彦が海幸彦を倒してしまい、
筑紫宗家が山幸彦だけになったので、
その隙を狙って
卑弥弓呼(の父か祖父)が即位を宣言して伊都を急襲し、
山幸彦の皇子は戦乱の只中で出産せざるを得かなった。

山幸彦は凶刃に斃れ、
日子波限建鵜葺草葺不合命はまだ乳幼児なので、
既に年長で祭祀と政治に長けた卑弥呼が女王に共立された。

筑紫宗家の男子は日子波限建鵜葺草葺不合命だけであり、
卑弥呼もまた、饒速日男系の子孫だったわけです。

>女系が尊重され、女性首長がいるのは、九州の特徴です。
>饒速日は男性上位の天津神の家系であり、女王が生まれる余地はありません。

天津神もまた、九州の家系なのですから、
女王が生まれる素地はあるわけです。

共立というのも重要です。

天津神が男性上位であっても、
共立に参加する九州の部族が女性首長を重視するのなら、
緊急事態において、渋々女王を容認せざるを得なかったのかもしれませんし。

景行が九州をぐるりと制圧したのですから、
景行の代に九州は統一されています。
三角縁神獣鏡が卑弥呼の治世を讃えているのですから、
邪馬台国の末裔は勝者の側にいるわけです。

後代の田油津姫は女王ではなく、地方首長。
邪馬台国の末裔の可能性は高いですが、トップではない。
邪馬台国の末裔のトップは仲哀や神功皇后。

倭国乱は、筑紫王家内部の内輪揉めだった。
景行がそれを終結させた。
神功皇后と田油津姫の争いもまた、邪馬台国末裔内部の内輪揉めだっただけです。

【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。

倭国と邪馬台国は微妙に違うんだよ。
邪馬台国は田油津姫で終わり。

邪馬台国は壹與=神橿日姫で終わり。

田油津姫は神夏磯姫の末裔と伝えられている。
田油津姫は仲哀の御代、神夏磯姫は景行の御代であり、2世代違う。
神夏磯姫は4世紀初め、田油津姫は4世紀末くらいか。
神夏磯姫は壹與の娘か孫くらいということになる。
卑弥呼から田油津姫までが狭義の邪馬台国となる。

神夏磯姫は八咫鏡を持つ邪馬台国女王でいいでしょう。
神夏磯姫の代に、景行が九州全土を制圧していますよね?

景行が統一したのだから、
その時点で景行以外が支配する邪馬台国は存在しえないことになります。
九州の支配者は景行になりました。
邪馬台国は消滅。あるいは、邪馬台国王=ヤマト王=景行、となりました。

邪馬台国vs狗奴国の戦いは終結したわけです。


景行の2世代後には、
九州の支配者は、筑紫橿日宮(香椎宮)の仲哀と神功皇后です。

大王である仲哀の支配下に、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮にそれぞれ配された官として、五十迹手と熊鰐
香春宮に配された官として、田油津姫
がそれぞれいた。

田油津姫と羽白熊鷲が、神功皇后に対して反乱を起こしたが、
大王である仲哀&神功皇后に、重要地点である五十迹手と熊鰐も合流して、
鎮圧されただけの話です。

神夏磯姫は橿日宮の女王であり、
景行の子孫である仲哀と神功皇后もまた橿日宮に入っているのですから、
神夏磯姫の支配権は仲哀に引き渡されています。

>筑紫は少数勢力によるせめぎ合いが続いていた。

4世紀末にそのような状況で、
しかも香春宮の田油津姫が邪馬台国女王として、
筑紫勢力と対峙しているのであれば、
あなたの邪馬台国観そのものを一から説明する必要があります。

2世紀中旬の倭国乱から、
3世紀の邪馬台国卑弥呼までの経過をどう考えているのですか?

景行が事実上の倭王となったことは間違いないでしょう。
しかし神夏磯姫も女王ではあり続けたでしょう。
複数の宮家が並び存在する不安定な状況だったでしょう。
豊浦宮の仲哀の時代も、岡田宮と高祖宮の王家が別に存在していたわけです。
卑弥呼が伊都で倭国女王となっても狗奴国が反抗したように、仲哀が香椎宮で倭王となっても、香春宮の田油津姫が反抗していたわけですが、田油津姫にしてみれば自分の方が卑弥呼以来の正統であったはず。
仲哀は後世において天皇とされているので、おそらく天津神の末裔で、神夏磯姫と田油津姫が国津神の末裔でしょう。
記紀は天津神の歴史書という立場から、仲哀を正統として扱ったのでしょう。
しかし、両家ともにおそらく神功皇后により倒され、応神からは武内宿禰を祖とする新しい王朝でしょう。

卑弥呼の前の男王70〜80年が日向三代なら、一代25年くらい。
記紀の通りなら、卑弥呼の即位を待たずして神武は筑紫を出ていたはず。
後世にも伊都高祖宮が登場するので、残留した天孫族もいたはず。
卑弥呼の元で伊都国の官とされた禰宜こそ、邇邇芸の末裔でしょう。

漢委奴国王
親魏倭王

卑弥呼は倭の邪馬台国女王であって、倭国王じゃないよ。
倭国王は別にいたんじゃないの?

例えば天皇家がいるけど、将軍が幕府開いてるみたいな。

倭国王だろ

卑弥呼の称号は親魏倭王ですね。

卑弥呼が倭國の王となったのは、247年年末。

246年迄は、卑弥呼は数ヶ国から共立されて女王国の王となった。

卑弥呼が邪馬台国の王であったことはない。

卑弥呼を共立した国々は、奴國、不彌國、投馬國、
それに邪馬台国を構成する4ヶ国、計7ヶ国である。

卑弥呼の城柵は、その4ヶ国の中心地であり、
それら7ヶ国の中心地である久留米南部に置かれた。

名称の問題は自称他称、倭国王を名乗れば誰でも倭国王でしょう。

倭国=九州島の国、なのですから、
倭国王=九州島の全部を支配する王、です。

卑弥呼は南の狗奴国との戦争中に亡くなりましたから、
九州島を統一しておらず、
現実的な意味での倭国王にはなっていないわけです。

台与も激告諭されて戦いに挑むところで記述が途切れていますので、
倭人伝に書かれている範囲では
倭国王にはなっていないわけです。

記紀で言うならば、景行天皇親子が九州を統一しているので、
現実的な意味での倭国王ですね。

倭国王とは、中国皇帝から承認される称号です。
言い張るだけではダメで、金印を受け取る前に国の様子を査察される必要があります。

漢が倭奴国王を任命してたから
漢から政権を禅譲された魏は倭奴国王の後継者を倭王を任命したんだよ
筑紫を支配するとか関係ない 。

タテマエ上はその通りだが、実際には倭国大乱で王統が乱れているにも関わらず、卑弥呼が倭王に叙されているよ。

「景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡」
と登場と同時に倭女王ですから卑弥呼は始めから倭奴国王の後継者扱い
つまり後継者であることを示す「漢委奴國王」で泥封した文書を持って行ったんだ。

ああ、それは同意。
伊都の細石神社にあったという。

後漢の倭奴国王は考古学的には伊都国の時代だから、好字に変えたんだろうな。

細石神社が建てられている三雲南小路遺跡は、伊都国最初の王墓であり、筑紫の日向に降臨した邇邇芸と木花咲耶姫の王墓と言われる。
年代的には漢委奴国王印をもらった時代の倭国王墓である。

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引用 : http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1525790222/

キーワード : 卑弥呼 - 邪馬台国 - つまり