伊都国東遷スレ 8

1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。

<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる

柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html

森浩一
「中国では連弧文鏡と呼んでいる内行花文は、花の文様ではなく、
太陽の輝きを捉えた文様だと推測されており、 天照大神そのものにふさわしい。
八咫鏡の有力候補が内行花文鏡であるということに、私は知的興奮を覚える。」

北條芳隆
「ヤマト土着の弥生文化の勢力が独自に邪馬台国の主体をになったというのはありえない。
纏向の建物の配列の仕方などは、ヤマト在地の弥生文化とは異質で九州北部の強い影響を受けていることは明らかです。
(中略) 言ってみれば、「邪馬台国東遷説」に近い考え方かもしれません」(歴史REAL抜粋)

寺澤薫
「平原一号墓の鏡はそれまでの弥生時代の王墓の副葬鏡とは大きく性格が違う。(中略)首長霊継承の秘儀には本来、
太陽の力によって首長霊を鼓舞する女性最高祭司と内行花文鏡が欠かせない存在だったという考えもある。
比類ない倭製の大鏡が内行花文鏡で、後の前期古墳にも引き続き特別扱いされていることは、その可能性を強く示している。」
(王権誕生 p249抜粋 連弧文鏡は、内行花文鏡と表記を改めました。)

伊都国東遷に親和的な考古学者の見解抜粋です。その2

寺沢知子
「初めて国産オリジナルブランドの超大型内行花文鏡を制作した糸島平野の勢力の意図は、
初期ヤマト王権成立期に吉備や出雲主要な要素に加えて受け継がれた。
特にその初期には、王権の伝統生徒独自性を主張しうる祭祀具として、中国製ではない国産の超大型内行花文鏡が王権中枢部で作り出され、政治性が付加されて分有された。 」

福永伸哉
「やや単純化して言えば、弥生後期段階に内行花文鏡を重視した集団のネットワークの中から、古墳成立期の中央政権主流派を形成する動きが展開して言った。 」

高橋徹
「現時点において平原遺跡にその最古例を知り得る特大、大型倣製内行花文鏡は、
大和の古式の前期古墳に形式的連続性を保って連綿として用いられている。」

伊都国東遷に親和的な考古学者の見解抜粋です。その3

今尾文昭
「前期古墳に出土の大型長宜子孫銘内行花文鏡の日本列島内への伝来と、
大型倣製内行花文鏡の製作開始時期に大きな隔たりをみる必要はないと考える。
具体的には、大型倣製内行花文鏡の製作開始時期は古墳時代前期前葉の桜井茶臼山古墳の出現以前に設定できるのではないだろうか。
平原墓出土鏡と古墳出土鏡に間隙を設ける必要はなくなる。」

清水康二
「柳本大塚、下池山古墳出土の大型内行花文鏡が含まれる大型鏡は、
王権の強い規制の元で製作され王権の意思によって被葬者の手元に届いたものと考えらえる。
その場合、当然のことながら面径30cmを超える極端な大型鏡は、中型鏡、小型鏡と比べて付加された権威はさらに大きかったものと思われる。」

辻田淳一郎
「奈良盆地の東南部に内行花文鏡系の超大型倭製鏡が集中する事実は重要である。
これは具体的には、舶載三角縁神獣鏡の配布主体と想定される。
奈良盆地東南部に墓域を営んだ初期ヤマト政権を構成した上位層が、
各地で共有される舶載三角縁神獣鏡や中国鏡とは異なる自らのアイデンティティの表現形態として
内行花文鏡系の超大型鏡を採用したものと考えることができる。」

コラムとして、「魏略と伊都国」を書きましたので公開いたします。
「平原一号墓」が女王墓であったという考古学側からの知見に対して、あくまで邪馬台国畿内説を維持しつつ、それが中国側文献に残っている痕跡はないか、という着眼点から考えました。
特に魏志の旅程記事解読において、女王国に至る「万二千里」は九州北部まででその大半を消費しているため、従来の単純な畿内説の立場では、どうしても納得的な説明を与えることができず、
「万二千里」は単なる文飾として無視する以外ないと感じていましたが、それがこの小論において、随分とスッキリしたのでは思います。これはある意味、旅程記事の解釈の大きな比重において、九州北部説側の説明に合理性を認めたという事でもあります。
(もちろん純粋な九州北部説で魏志が全て綺麗に説明されていると認めているわけでありません)
少々自身を込めて表現するなら、この小論において、共立された女王としての平原墓を文献的にも発見すると同時に、旅程記事の里程の矛盾が解けた、と言うことができるでしょう。
「膝に手を打つほどに明快」とまで感じるは人に依るところはあると思いますが、個人的には、なかなかの自信作というところでしょうか。是非ご一読ください。

http://fast-uploader.com/file/7083675628950/

【八咫鏡】

平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。

内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。

石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。

【卑弥呼の王宮の候補】

・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。

・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。

・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か?

いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。

前スレ>997
>もう病院行ってきた方がいいぞ。マジレス。
>親切心だぞ。感謝しろよ。

畿内説スレPart362 >290
>これも何度も書いていることなんだけど

>そろそろ頭の病院に行くか、
>刑務所(死刑)にでも行ったほうが良いぞ

同じ人?
例のつぶやき荒らしの人で、連続句読点とも同一人物?

「畿内説スレPart362 >290 」は、つぶやき荒らし宛の書き込みだね
了解しました

http://menu.2ch.net/bbstable.html

他の板というの?ここから探してみて

>いやいや、福岡平野側の奴国勢力を抑えて、天孫は高天原(詳細不明)から来たんだよ。
>須玖岡本は猿田彦のような人物なのではないか?

福岡平野側の奴国勢力を抑えたら、奴国に入ればいいとは思わないかね?
糸島平野より福島平野の方が広いし、人口も多い
奴国勢力が抑えられるのであれば、抑えを利かせる意味でも奴国に天孫降臨しないとおかしくないか?

>戻って来るって何のことだ?
>奴国は天孫族じゃないぞ。
>天孫族は卑弥呼の前の男王70-80年の三代だろうね。

伊都国説の主張では、平原1号墓が卑弥呼の墓という「設定」なんだろ?
ならばなぜ、前スレ>974は「三雲の天孫族から八咫鏡とともに太陽信仰を継承」と
いうことになるんだ?

三雲・奴国が天孫族だったりなかったりするのは、不統一だから何とかしてくれないかね?

前スレ、900あたりより、この流れ惨すぎる
『他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって いう論文があるなら出してごらん?』
「いや、普通に考えればなにも内行花文だけが独占的に太陽を象徴している必要はないわけで、おまえは何に見えるの?」
『そっちが答えないのに、こちらが答える道理はないだろ? そしてこっちの要求は、日本史板の趣旨に合うが、そちらの要求はただの難癖 レベルの低いやつはこれだから困るww」
「(難癖?レベルが低い?ただの質問なんだけど?)日本語わかりますか?何に見えるの?』
『マンホールの蓋』
「(は?突然何を言い出すの?)いや、マンホールの蓋って、弥生時代にはないよね?」
『太陽に見えるから太陽の象徴というマイルールを認めろというなら、マンホールに見えるからマンホールの象徴という主張と差異はまるでないことに 気がつかないとww 』
「いやいやいや、だからそもそもマンホールの蓋って、弥生時代にはないよね?そこが既におかしいよね?」
『マンホールというのは外来語だから、3世紀の人間がマンホールという用語そのもので 考えていた可能性は否定できるが、
ここでマンホールというのは、暗渠や水路などの蓋という 機能面について(以下略)』
「(だめだコイツとは会話が成り立たないわ)」

多くの人が、「これは八咫鏡だ」と納得すれば、細かい数字はともかくとして八咫鏡になってしまう。
八咫の大きさから程遠いのに八咫鏡と呼ばれている伊勢の鏡がその代表だ。
つまり、平原の鏡が八咫鏡であることを否定する材料は皆無なんだよ。
いやむしろ、これまで知られているどの鏡よりも八咫鏡にふさわしい。

高千穂と呼ばれる地名は多い。
しかし宮があり城があり王墓を備えた土地は伊都しかない。
まして固有名詞で筑紫と呼ばれるのは古代においては筑前の中でも博多湾沿岸のみ。
筑紫の日向の高千穂宮を、伊都以外のどこに求められるというのか。
考古学的に弥生時代最高の文化的水準を達成していたことが明らであり、魏志倭人伝にも郡使が滞在し大率が置かれた外交と政治の中心地となっている。
神代(古墳時代より前、弥生時代)における倭国の都は伊都しかあり得ない。

まだ 続いてんのクソスレ

伊都国(卑弥呼)が東遷なら
3世紀畿内が文明的に九州に比べ劣っていたのは何故?
この疑問に答えるべきだね

別の説として、天浮橋を志賀島の海ノ中道、串日(略字にて御免)を橿日(香椎宮)に充てることも提案したい。
この場合、郡使が留まるのは伊都だが、王宮は香椎宮(不弥国)となる。
二上山は立花山(ピークが二つある)となる。
立花の名前は筑紫の日向の橘にも通じる。
伊都国から不弥国までは魏志倭人伝に里程も掲載されているので、郡使が往復したことは間違いない。

伊都高祖宮にしても筑紫香椎宮にしても、筑紫の中の博多湾沿岸であり、この一帯を女王国(邪馬台国)としていたのだろう。

語源云々が後付けの説明なのであり、くしふるの地名そのものは昔からあったのだろう。
ただし椚の集落が慶長年間にできたことはわかるが、名前がいつ成立したかは不明。
大正の文献で確認できるので、昭和の九州説とは関係ない。

http://fujikoubou.html.xdomain.jp/yamatabi/takasuyama/takasuyama.html
ここに怡土城の平面図やら楼閣のあとやらが紹介されているのだが、すこしおかしいなと感じた。
城域の南縁は、高祖神社からの登山路に入っているが、この線より北あるいは西を城域とすると、先ほど求めたクジフル山が含まれない。
城域の北縁は楼閣跡があるので間違いないが、南縁はこの図の位置ではないはずだ。
そもそも、この城は福岡と糸島を結ぶ日向峠を守る必要があるので、南縁は日向峠まで届かなくてはいけない。
そうすれば、クジフル山も自然と城域に含まれる。
クジフル山の頂上が平らなのも、そこに何か構造物があったのではないかと疑う根拠となる。
後世の高祖城の遺構とも読めるが、定かではない。
魏志倭人伝には卑弥呼の宮城は楼閣が高く兵が厳しく守っていたとあり、高祖宮を囲むように石塁や山上の楼閣が連なる様子はまさにそのままの光景だったろう。
別名を高千穂宮というのもピッタリだ。

怡土志摩郡地理全誌の話を追って行くと、古田史学の会が出所って所までしか追えない

だれか、原本買って調べてくれないかな

ここで買えるみたいだから
https://books.google.co.jp/books/about/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%9C%B0%E7%90%86%E5%85%A8%E8%AA%8C.html?=qSoAogEACAAJ&redir_esc=y

出典が明記してあるんだから、自分で国立国会図書館にでも行けよ。
自分で何も示せないなら黙ってろ。

捏造は畿内説の十八番だろ。

結局、誰も高祖山の峰のひとつがクジフル山と呼ばれていたという確実な根拠は示せなかったな

誰かが掲示板に「買ったらちゃんとその通りに載っていた」と書けば信用するのかな?
すでに出典が記載されているということは同じことだと思う。
出典付きのレスが信用できないなら、掲示板などはじめから覗かなければいい。
明治まで遡れば古田とか関係ないし。

たとえばさ、伊都国説の連中はよく
「大作冢」は、「大いに冢を作る」であって「大きな冢を作る」ではないって
うれしそうに書いてるけどさ、
でも「径百歩」なのは変わらないよね?

伊都国のどこにも径百歩の墓がないのに、
それでよく伊都国説なんてやってられるね?

古代の単位系を新たに創作するのは九州説の伝統芸

それは東遷説
畿内説ちがう

貝原益軒の筑前続風土記に高祖古城を
「高祖山頂に在」「本丸の址南に在。尤高し。」
「本丸の南三四町に、鬼が城とて高き山有。本丸よりはひきし」
とある
椚の地名は記載あるが、由来は書かれていない

江戸時代には「クシフル」という地名は無かった可能性が高い

平原1号墓から、「鋳上がりの悪い、伝統の文様・作図法を無視した
やたらでかい破砕された仿製鏡が5枚出土した」のは事実

でも、6枚目があった、とかいうのは憶測か妄想

「あったらいいな」で歴史を語るのが、伊都国説のデフォ

畿内や西日本に大きな動きがあるのは、卑弥呼の死後くらいからだね。
だからいつも畿内説は年代比定が前倒し気味になっている。

つまり東遷か?

奈良盆地はおろか畿内において前段 階(第VI –2 以前)に前方後円墳築造に直接繋がる要素はほとんどない。
このことはヤマト王権の権力母体が大 和(とりわけ「ヤマト国」)ないしは畿内唐直接引き継がれたとする第一の道論にとっては決定的な弱点となる。
つまり、畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般 的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主 要地域に比べると、墓に反映されるほどの階級的に隔絶 した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
首長層の権力の動向が如実に墓制に反映される社会であるからこそ、大和弥生社会と纒向遺跡の前方後円墳の出現 にみる権力者(集団)の断絶と異質性は重要な意味を持つのである。

どう見ても東遷です。有難うございました。

そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテー マを追い始めた1976 年頃から、
大和弥生社会の自然的、 社会的、そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、
いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、
というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。

畿内自生だけはないと断言して、根っからの東遷論者とカミングアウトしてるわけだ。
おつかれ。

大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新されるという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。

東遷ですね。

所詮、学問ごっこだからな

本人は「東遷説と誤解された」と明言してるのに都合が悪い事実はガン無視

本論の主旨や 記述も第二の道論であるとはいえ、こうしたなかば
大局的・協調的・妥協的な路線に沿って行われたものと考えている点を再度、明言しておきたい。

東遷は東遷。それが単に「大局的・協調的・妥協的な路線に沿って行われたもの」というだけ。
文盲乙

東遷説には与しない
by 寺澤 薫

森浩一の教え子がいかに洗脳から脱会して行ったか
というプロセスをちゃんと理解しないと
東遷厨らしいトンデモに堕ちる

大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、

これはどう解釈するんだ?
先生はなんと結論づけているんだ?

大和弥生社は、大きな別の権力主体によって征服、あるいは包括、 刷新されるという苛酷な道を歩んだ
By 寺沢

東遷は否定するけれど、東征は否定しないんだろ?
大局的な動きとしては、筑紫の勢力が大和を征服したと見ているわけだ。
つまり、東征は否定していないんだよ。
直接的な武力衝突ではなく、神武と饒速日の会談のような、政治プロセスによる統合は、細かい年代や人物に相違はあるかもしれないが、大局的には存在し得ただろうということなんだよ。

大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、

これはどう解釈するんだ?
先生はなんと結論づけているんだ?
内行花文鏡を副葬する権力の系譜はいかなる地域のいかなる集団か?
紀元前から博多湾沿岸にあった倭国王家そのものではないか。

寺澤先生のいう第二の道の本質はこれだよ

「歴史に残るほどの大事件を想定せずおれないであろう。
 それは、今までみてきた古い大和弥生社会が、新たな
 より巨大な歴史的運動によって呑みこまれていくという
 ストーリーでしかない。」

東遷論ははっきり否定
「私があたかも北部九州勢力の東遷論者であるかに評価
 されることとなり、5年後に刊行された橿原考古学研究所
 論集では改めて、いわゆる「東遷論」一般には与するもの
 ではないことを明記した。」

具体的には
「私は北部九州(2世紀までの倭国中枢であった、私の
 言う「イト倭国」勢力)や2世紀以降とくに強大な勢力
 として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を
 維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の
 言う「新生倭国」の誕生)と考えている。本論の主旨や
 記述も第二の道論であるとはいえ、こうしたなかば大局的・
 協調的・妥協的な路線に沿って行われたものと考えて
 いる点を再度、明言しておきたい。」

伊都国が中枢だったのは2世紀までって明記されてるね
3世紀の卑弥呼の時代には辺縁だってことだ

このように典拠を明記しても、九州説は牽強付会な引用で内容をねじ曲げるだろ?

だから『怡土志摩郡地理全誌』の情報が「古田史学の会」の孫引きしかない状況では
内容もそのままでは信用できないんだよ

最終的にその再編がいつ行われたかについては言を濁しているじゃないか。
私が畿内説を信用できないのは、畿内に邪馬台国があったと言うならそれは必然的に東遷説であるはずなのに、非科学的な年代詐欺のようなことを重ねて、文献の都合の悪い部分は無視した挙句、一部分だけ牽強付会のようなことを繰り返しているからなんだよ。

その絶対年代が卑弥呼より前か後かは明示されてないだろ。
しかもあくまでも奈良盆地内の話であって、盆地の外の勢力によって急速に庄内式に塗り替えられたと言うのが寺沢氏の意見なんだよ。

東遷というと権力主体がうつったように思われるけどそうではないってことでしょう

記紀のとおりの正しく東征があったというのも
記述実態として、高だか10代ちかくかけないと大和盆地を制覇できていない。征服行動にはふさわしくない。

群雄割拠の草刈場だったわけだな。

「あの有名人はほんとは俺と同じ考えなんだ。諸般の事情でハッキリ言えないだけなんだ」
というイタコ口寄せ思考が、素人トンデモさんのよく罹る病気

「あの有名人はほんとは俺と同じ考えなんだ。諸般の事情でハッキリ言えないだけなんだ」
というイタコ口寄せ思考が、素人トンデモさんのよく罹る病気

九州説は、九州説を唱える人の数だけあるんですよ
ただ九州説と言われても、どの九州説かわかりません

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引用 : http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1531742186/

キーワード : という - 畿内説 - つまり