【福岡】伊都国と奴国テーマに論議、邪馬台国の謎に迫る 飯塚で古代史講座 「伊都国の平原遺跡の被葬者が卑弥呼ではないか」★2

伊都国や奴国がどんな国だったか討論する高島忠平氏(左から2人目)ら


 考古学者の高島忠平氏が監修する古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く〜遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第2回講演会が3日、飯塚市のイイヅカコミュニティセンターであった。中国の史書「魏志倭人伝」に記述がある北部九州のクニ「伊都国」と「奴国」に関する近年の研究について2人の研究者が講演し、邪馬台国の謎に迫るヒントを探った。

 伊都国について糸島市教育委員会文化課の岡部裕俊課長は、北部九州の軍事掌握や、中国に発送する文書検閲などを担った「一大率」が所在していたという説を紹介。遺跡から中国製の土器や貨幣が出てきたことから、大陸と直接交易をしていた可能性があり「政治的な重要地点だった」と指摘した。

 福岡市埋蔵文化財課の常松幹雄主任文化財主事が、福岡平野を中心とした奴国について紹介。「漢委奴国王」と刻まれた金印が作られたのは57年で、魏志倭人伝に登場する奴国は3世紀ごろだとみられる。2世紀ほどの隔たりがあることから、魏志倭人伝に記された奴国の首長が金印を下賜されたとする解釈は「ふに落ちない」と強調した。

 講演後、2人と高島氏が公開討論。伊都国の平原遺跡の被葬者が卑弥呼ではないかとする高島氏の説に対し、岡部氏は「祭祀(さいし)に関わった特殊な力を持った女性を想定する」、常松氏は「被葬者が男性とする根拠はなく、女性と考える」と応じた。

西日本新聞 2019/8/4 6:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/532555/

★1:2019/08/05(月) 23:30:20.66
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1565015420/

倭の国とは九州のことだったのか
じゃ本州は大和の国か

九州で可能性があるのは宇佐神宮じゃないの
今は畿内説の方が有力のようだけど、状況証拠だけじゃなー

採れる作物の記述を研究すればだれでもどこに邪馬台国があったかわかる件について

まだやんの?
邪馬台国がどこにあろうが結局越前のヲホドが皇室の基礎なんだから

平原遺跡の被葬者が卑弥呼。

これが正解。

大和朝廷は九州併呑してるんだから、そりゃ九州の歴史は知ってるだろ。
それ以外の地域も風土記の記載レベルからすればそれぞれの国の歴史まで踏み込んでるし。

人は記憶型と思考型に大別できる

九州のアイドル卑弥呼ちゃん
大手プロダクションが出てきて関西でメジャーデビューを企んでる
四国勢もあわよくばと卑弥呼ちゃんを狙ってる

九州八女の山奥に卑弥呼は生まれ生活し、大宰府近辺の集落を治め、お墓は平原と推測してる。大宰府は、博多湾と有明海に通じる地の利。隣は吉野ヶ里。呉の民族は西の有明海の港から入ってきていた山門だな。呉とは安曇族だな。その後日本中に痕跡を残してるよ。

邪馬台国は朝鮮?

祇園山古墳は殉死も確認さてているだけで66人、
朱で塗られた槨なし棺墓、
高良山の麓という、
筑後平野の戦略上の要害、
径100歩の丸い墳丘、
全てが卑弥呼の墓である事を訴えかけて来る。
高良大社の豊比?盗_社は文字通り、
トヨを祀る神社だ。

平原古墳か祇園山古墳かどちらも怪しい。筑後付近はどこも怪しい。卑弥呼の痕跡と磐井の痕跡がごちゃごちゃあって境目も筑後近辺。

わざわざ日向の浜から瀬戸内海通って紀伊半島迂回して東遷しましたって書いてある本があるのに、
オマエラ何をいつまでグダグダやってんの?ヤマト国は九州から畿内に東遷して大和朝廷になりました、おわり。

邪馬台国は狗奴国との戦争によって壊滅したのですよ。
ヤマタ(邪馬台)ノオロチはスサノオ(モデルのひとりは狗古智卑狗)によって退治されたわけです。
決戦の場もしくは和平交渉の場あるいはその両方が天の安河(夜須川)付近だったのでしょう。

邪馬台の指導層たちの生き残りの逃亡先が宇佐。後に半島南部からタラシ系の倭人たちが九州島に侵入してきたとき
彼らは邪馬台の末裔(神夏磯姫)と婚姻関係を結び、ハクを付けたうえで吉備、河内へ向けて瀬戸内海を東進しました。
宇佐神宮そのものが大きな古墳の上に有るという説もあるそうですが、もしもそうであるのなら
その被葬者はおそらく台与でしょう。

台与につづき五王が、まだ朝貢しているときに書かれている

西晋(265年 - 316年)の時代、280年から297年の間に成立した『魏志』倭人伝


帯方郡ー韓国

− 海を渡る1000余里−

対馬國

− 海を渡る1000余里−

一大国(隠岐)

− 海を渡る1000余里−

末廬国(松江)− 伊都国(出雲)− 奴国(因幡)− 不弥国(摂津住吉)− 投馬国(近江)を経て邪馬壱國(奈良)

邪馬台国が出雲から隠岐を使うルートで大陸と行き来していた同時期に九州は、大陸との行き来をしていなかったのか・・と言えばそうではなく
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられそれから150年間以上、倭の国王として君臨し、大陸との交易を続けてきた

帯方郡ー韓国

− 海を渡る1000余里−

対馬國

− 海を渡る1000余里−

一支国(壱岐)

− 海を渡る1000余里−

竹斯国(筑紫)

のルートで大陸と行き来していた

対馬から壱岐→筑紫を使うルートは
後漢(25年 - 220年)から57年に任じられた「漢委奴国王」【九州の既得権益】だったのだ

そして

後漢(25年 - 220年)から57年に任じられた「漢委奴国王」の【第4皇子(漢委奴国王では無い)】の神武が奈良を制圧し、自分の国「大和」となり

その父の第32代目「漢委奴国王」の「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)」から

対馬のかわりに一支国(壱岐)を使うことを許されて、一大国(隠岐)の使用をやめて

唐(618年 - 907年)の時代、太宗の命で編纂された『梁書』倭人伝(629年完成)

帯方郡−一支国(壱岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(摂津住吉)−投馬国(近江)を経て邪馬臺国

大和朝廷と邪馬台国を関連づけようとするから無理が出る
邪馬台国は九州で大和朝廷とは何の関係もない

邪馬台国論争は畿内説の関西人と九州説の九州人を排除して行うべき
贔屓の引き倒しウザい

倭王帥升は倭王金
倭王帥升等で皇家女王等
倭王朕とか言うのは天皇のことだから

金印は漢のハンコ、漢倭奴国王は、漢の奴隷王という意味

一大率は割合のこと、そこに諸国の王がたくさん居たという意味に

伊都国は我、藤(フジ)国という意味に
藤は日本の花、そこに藤原氏みたいな官吏がいたということ

奴国というのは漢の直属の奴隷王がいたと考えられるから
奴国に当時の倭の王がいたということが考えられる

卑弥呼の墓は奴国にあると考えられるけど
発掘した跡も盗掘された跡もあるから

あの時代は現代とは時空間の位相にかなりのズレが発生していたからね
邪馬台国の正確な位置が収束しないのはそれが原因
時間を固定すれば空間が発散するし、空間を固定すれば時間が発散する
場所を特定するのは原理的に不可能であることを21世紀の人間はまだ知らない

九州に邪馬台国が存在したとすると、そのパターンは、大きく分けて3っつ

パターン1
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられそれから150年間以上、倭の国王として君臨してきた国が、ひきつづき「親魏倭王」となった

 ↑ 九州にいる渡来人、大陸側の役人は、当然、どこが邪馬台国なのか、方位も里数も行程時間も知っている、倭王としての名前が変わっただけ、間違わない



パターン2
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられそれから150年間以上、倭の国王として君臨してきた国とは別の九州の国が「親魏倭王」となった

 ↑ 九州にいる渡来人、大陸側の役人にとってビックニュース、当然、どこが「親魏倭王」となったのか話題となり、方位も里数も行程時間も知れ渡る、間違わない



パターン2
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられそれから150年間以上、倭の国王として君臨してきた九州に、
邪馬台国という国が新しく出来て、「親魏倭王」となった

 ↑ 九州にいる渡来人、大陸側の役人にとってビックニュース、当然、どこに邪馬台国ができて「親魏倭王」となったのか話題となり、方位も里数も行程時間も知れ渡る、間違わない

結論

邪馬台国は九州には無かった

邪馬台国が何処でも構わないんだが、どう考えても13才の台与で話が纏まるというのは、半島伝説を考慮としか考えられない。奈良だと遠すぎるかもうこのとき半島に侵されかかってるかになってくる、共立はあくまで半島諸国と九州位と考えるのが自然じゃないのかねぇ

奈良の邪馬台国なんて、クソ田舎の、内陸の、
渡来人も大陸の役人も、今まで誰も行ったことがなかった小国が

出雲を植民地にして、一大卒を派遣して統治して、

急に大陸に行けるようになっちゃって、「親魏倭王」になっちゃった

この頃は半島も日本列島も日本と朝鮮では無いわけでごった煮なんだから、ただ日本人の俺としては列島に先住卑弥呼女王国があって微力ながら頑張ってたとしてほしいんだが、その後を考えると百済、新羅が押し寄せ、万世一系なんてものが支配し脇を渡来が固めてる。

奈良の邪馬台国なんて、クソ田舎の、内陸の、
渡来人も大陸の役人も、今まで誰も行ったことがなかった小国が

出雲を植民地にして、一大卒を派遣して統治して、

急に大陸に行けるようになっちゃって、「親魏倭王」になっちゃった

しかし

夷人不知里數但計以日『隋書』
倭人は里数を知らない、ただ日を以って計算している

ので

『魏志』倭人伝に書かれている方位も里数も行程時間も

すべて渡来人のヤマカン (^_^;

朝鮮人が農耕を始めてできたのが邪馬台国

九州で稲作を始めたら土人が集まってきた

10月の令和新天皇即位の儀式で使われる麻布の衣と、絹布の衣は代々四国徳島に有る
日本最古最上位の神社で作られる
神社は山の上に有って、水が汚されることがない、これが邪馬台国だ

俺の父方の先祖は700年前、四国から奈良県吉野に移住して、そのご後醍醐天皇天皇にお仕えした
という伝承が有る

卑弥呼の時代は既に西から呉の民族が入っていて共に倭を建国してた。呉は航海得意だからな。当然、魏国に正しい場所は知られたくない。壱岐辺りから、船で西に回って有明海から内海通って筑後平野まで水先案内したんだろ。

九州には筑紫、肥、豊、熊襲の
4つの国に分かれていた。
そのうちの漢倭奴国王が筑紫。
親魏倭王が肥。

筑紫と肥の国境付近には
鉄の武器の痕跡や戦死遺体が残り
戦争状態であったことが伺える。

しかし卑弥呼が魏に支援を求めたのは
熊襲対策であって筑紫対策ではないことから
筑紫と肥は休戦状態だったと思われる。

筑後川より北が筑紫、
筑後川より南で有明海沿岸が肥だったが
4世紀ころには筑後川下流部の
低湿地地域が開発できるようになり
筑紫と肥で激しい争いが始まった。

ポイントは久留米で、筑紫平野を一望できる
久留米高良山の奪い合いになる。
このときの砦となったのが久留米高良大社だ。

筑紫は周到に筑後川から広川に入り
大善寺玉垂宮に橋頭堡を築く。
このあたりまでは満潮時には逆流する川なので
輸送もしやすい。

ここをそれなりの兵力で押さえたあと
上津高良台の上津天満宮に侵攻。
ここに拠点を築く。

その後、高良山を奪取し
筑後の覇権は筑紫のものとなる。
位置的には肥中となっても良いような
位置関係だが、筑後となったのは
筑紫がここを獲ったことを表している。

現代でもそうだけど博多湾は東の奥に船を止める
神功皇后が半島を攻めるのに置いた香椎宮もその近く

2回目の魏の使者張政は博多湾から上陸して
伊都国へ向かう途中に奴国を見て
高いところから遠くの不弥国が見えたんじゃないか

虚実入り混じる魏志倭人伝は都合よく解釈できるので
日本全域で邪馬台国である可能性が生じるが
対海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国は
邪馬台国ではないと言える

アトランティスから逃げ延びてきた人たちが住み着いたのが邪馬台国

ダイワとしか読めない「大倭」をヤマトと読ませるのは
魏志倭人伝の「大倭」に由来するとしか考えられない

・魏志倭人伝では邪馬台国を「大倭」と表現した
・倭国ではヤマト(奈良)に「大倭」の漢字を当て字した

邪馬台国が奈良ではないとしたら
この2つが偶然の一致ということになってしまう。
奈良が邪馬台国だからヤマトに魏志倭人伝の「大倭」の文字を採用したとしか考えられない

弥生渡来系が阿曇の手引きで九州に定住
でも農地が少ないので徐々に瀬戸内海を東進
これが当事者にとっては神武東征だし、土着勢力にとっては畿内にいきなり現れた天日槍
どちらの神話も軍事侵攻というよりは住むところを分けて最終的には手打ちした話になってる

卑弥呼が伊都国から奈良へ引越ししてた場合しっくりくるところ

>丗有王
(伊都国には)代々王がいる

>乃共立一女子為王
一女子を共に立てて王と為した
(銅鐸に共立の跡がみられる)

>倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼と素より不和
(卑弥呼が伊都国にいたときから熊本市の狗奴国の卑弥弓呼と不和)

天皇より上の卑弥呼の存在は隠されたが引越しはしたので
架空の人物神武を作って神武が引越ししたことにした

魏志倭人伝には「漢の時」「その国もとは」と言う文章がありながら金印をもらった漢委奴国についての言及が全く無い。魏と邪馬台国の双方においてかつての奴国(または委奴国 )との歴史を全く意識する事、させられる事がなく外交が行なわれたからだろう。
以上、既に常識的な事かも知れんが。

だからな。金印等証拠は博多だ隠して、別人として畿内に移動したんだろ。正式に邪馬台国はどっちもと思える。

そもそも九州の地名って戦国時代に各大名が泊を付けるために改名しまくってて、全くアテにならんのよ
とくに島津家は南九州一帯の地名を改竄しまくりで元の地名がわからなくなる弊害がある

都城(津島→都島→都之城→都城)
宮之城(屋地→都之城→宮之城)
加久藤(覚頭→加久藤)
皇子原(大瀬原→皇子原)

発祥地島津荘周辺でもざっと調べてこれだけ出てくる

淡路島の1世紀の五斗長垣内遺跡や
2世紀半ばから3世紀の舟木遺跡は
九州北部側のものだったんじゃないか

九州北部は出雲と協力して
大陸の技術や鉄などが近畿に行かないように
瀬戸内海や日本海を見張ってた

そして九州北部が瀬戸内海の制海権を広げる過程で
1世紀に淡路島に五斗長垣内遺跡を作って明石海峡を抑えた

同じく1世紀に九州北部は大阪南部にも進出して
池上曽根遺跡や滑瀬遺跡を作った


近畿でも弥生のすずり? 大阪・泉南、滑瀬遺跡
https://www.sankei.com/photo/story/news/190619/sty1906190006-n1.html
大阪府泉南市の弥生時代の滑瀬遺跡で出土した板石の破片は、
弥生時代後期(1世紀)のすずりの可能性が高いと
福岡市埋蔵文化財課の主事が指摘していることが19日分かった。

弥生時代から古墳時代前期のすずりは、
これまでに北部九州を中心に50例以上確認されているが、
大阪府で見つかるのは初めてで、現状では東限という。
弥生時代の文字使用が西日本で広がっていた
可能性を示す発見として注目されそうだ。


九州北部は抑えた大阪南部を足がかりに
7、80年ほどかけて畿内を制圧 
東海勢力とは共立の王を立てて和解する

>その国、本は亦、男子を以って王と為す。
>住むこと七、八十年。
>倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、
>乃ち一女子を共立して王と為す。
>名は卑弥呼と曰う。

弥生時代の畿内から鉄が出ないのは
九州北部と出雲による近畿封鎖弱体化作戦だったんだよ

実際耳飾り付き銅鐸の発祥は大阪府南部なんだよね
そしてはみ出す横棒の銅鐸の発祥地は大阪北部
大阪南部の耳飾り付き銅鐸は順調に畿内を制圧するが
大阪北部のはみ出す横棒銅鐸は
戦いを避けるように東へ移動して東海に至る
そして共立するが
数10年かけて東海勢力は畿内に飲み込まれていく

戦いを避けて移動したり
東海の勢力は九州北部と同族だった可能性があると考えてる尾張氏とか

畿内勢力が最初に大阪府南部を抑えてたことや
東海勢力が最初に大阪府北部を抑えていたことは

この何秒か前に映ってるからこれをみればわかるけど録画してよな
歴史秘話ヒストリア 銅鐸とまぼろしの王国 ?A
http://blog.goo.ne.jp/snclimb/e/a322d3480b49313f2d9a7e1b420514a7

歴史秘話ヒストリア 銅鐸とまぼろしの王国 ?@
https://blog.goo.ne.jp/snclimb/e/3031c1711788af9b0dad05aa3bc30a73


1もあったのか
銅鐸をどうやって鳴らしてかはずっと謎だったが
十字の棒にこんな感じでくくって鳴らしてたという
大発見だから見ておくように
よく2個セットででてくるのもそのため

伊都国パーと宇佐パーがいるが、
もう卑弥呼の墓は祇園山古墳で結論出てる。
邪馬台国も当然だとその周辺。

伊都国パーと宇佐パーがいるが、
もう卑弥呼の墓は祇園山古墳で結論出てる。
邪馬台国も当然その周辺。

卑弥呼の墓は伊都国には無い。
こんな魏志倭人伝の記述まる無視なら、
そもそも邪馬台国論争をすること自体に意味が無くなる。
伊都国パーは近畿パーと同類。

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引用 : http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1565360483/

キーワード : 邪馬台国 - 卑弥呼 - にしても